神港教会説教
2004年4月18日
「何をして欲しいのか」(説教抜粋)
マタイ 20:29-34
群衆は叱りつけて黙らせようとしたが、二人はますます、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。イエスは立ち止まり、二人を呼んで、「何をしてほしいのか」と言われた。二人は、「主よ、目を開けていただきたいのです」と言った。イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。
二人の盲目の物乞いが「主よ、ダビデの子よ。私を憐れんでください」と叫ぶと、群衆は、彼らを叱り、黙らせようとしました。理由は、明記されていませんが、群衆からすれば、場違いな叫び声だったのでしょう。彼らは、町のなかで物乞いをすることを許されていますが、ひっそりと社会の片隅に生きるだけの存在です。叱られた二人の盲人は、気後れすることなく、ますます、大きな声で叫び続けました。彼らは、物乞いです。人々の憐れみを受けて生きている彼らは、或る意味で生活をかけて、イエス様に叫び続けたのです。
この叫び声は、イエス様に届きました。イエス様は、立ち止まり、声をかけ、「何をして欲しいのか」と尋ねられます。盲人は「目を開けていただきたいのです」と答えます。盲人の目が開くことこそ、ダビデの子の救いの御業であり、メシア到来を印づける奇跡です。おそらく、群衆も、メシアが到来するとき、盲人の目が開くという預言の言葉を知っていたと思われます。そして、群衆は、この癒やしの奇跡を見て、勇気づけられて、イエス様がエルサレムに入場すると、イエス様のことをダビデの子と叫ぶのです。
しかし、実際に、盲人が、「ダビデの子、主よ、憐れんでください」と叫び求めているときは、群衆は、彼らを黙らせようと叱りつけていたのです。群衆の願いであるローマ帝国からエルサレムの奪還と比べるなら、エリコの道ばたの物乞いの二人の目が開くことは、群衆にとっては余りにも些細なことでした。私たちは、今日のテキストを、盲人の立場で読むと、未信者の両親や同僚から圧迫されても、ただひたすらに、自らの願いをイエス様に求め続けるようにとの励ましを受けます。群衆の立場で読むと、他の人がイエス様にその人にとって大切なことを願っているのに、その人を叱りつけていないかと反省することになります。
イエス様は、彼らの願いを聞き、深く憐れんでくださり、彼らの目に触わられました。すると、直ちに、彼らの目は癒やされました。ここに用いられている「深く憐れんで」という言葉は、福音書においてイエス様の感情を表す特別な言葉です。「主よ、憐れんでください。私たちを」という盲人の叫びに、主は、豊かな大きな深い憐れみで答えてくださったのです。マタイが伝えたいのは、人々が叱りつけたような願いに対しても、深く深く憐れんでくださったイエス様の姿です。マタイは、皆に叱られても主に憐れみを求め続け、主の深い憐れみを体験する物語りとして、盲人の癒やしを描いています。主は、私たちの叫びにも必ず、深い憐れみをもって答えてくださいます。私たちの願いは、主の憐れみ深さを体験させていただき、私たちの願いを通して、主が救い主であることが明らかとなることです。
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