神港教会説教
2004年2月1日
「心を入れ替える」
マタイ 18:1-6
「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」(3-5節)
誰しも、仕事においてでないとしても、また、人から「偉い」と認められなくても、何かの点において、人より抜きんでていたいという願望を持っています。そのような競争心とプライドがないと生きていけないのが、この世であると言えるかもしれません。この論理が信仰の世界に入ってくるとどうなるでしょうか。この世のことはともかく、信仰においては、誰にも負けないという人が現れるかもしれません。
18 章1節には、「天の国で一番偉いのは誰か」という弟子達の質問が記されています。弟子達は、天の国に入れて頂けるという前提に立って、席次争いをしています。イエス様は、「そんなことを議論していたら、入ることすらできない」と警告しておられます。また、「天の国において誰が一番偉いか」という問は、18章の文脈においては、「教会において誰が一番偉いか」という問と置き換えることができます。弟子達のなかで出世争いをしているようでは、弟子達は教会の指導者たり得ないのです。
イエス様は、一人の子供を実際に呼び寄せて、弟子達のなかに立たせて、この子供のようにならなくては、天の国に入れないと勧めておられます。この子供を理想化してはなりません。宿題をしない。言いつけを守らない。テレビゲームばかりをしている。弟のお菓子は食べる。見るに見かねて、親は大声を出す。また、イエス様の時代、幼児死亡率は、30%に達し、出生児の30%は6歳までに死亡し、その60%は16歳までに死亡した、と言われています。子供であるとは、無力で、か弱い者という意味です。また、子供とは、一人前として、大人の世界で通用しない者です。大人の規準からすれば、どこから見ても、偉くない者が子供です。
天の国においては、その人の価値は、その人の能力や技能にかかっているのではありません。神様のまえでは、すべての者が、まさに、子供のように無力で、か弱く、何も十分にできない者です。にもかかわらず、天の国に受け入れられています。その根拠は、ただただ、神様が愛に溢れているお方だからです。それなのに、自分の力で天の国に入ったかの如き錯覚を抱いて、あの人に負けたくないと競争するとすれば、その人は、天の国に相応しくありません。天の国である教会とは、偉くなりたいという心を入れ替えて、子供のような者に注がれている神の愛に感謝することを学ぶ場です。教会においても偉くなろうとする者は、イエス様をも拒む人です。教会がイエス様を受け入れるとは、信徒がキリストの名のゆえにお互いを尊び合うことに表れています。
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