神港教会説教
2004年1月25日


「神に喜ばれる礼拝」
(標語説教)
ローマ 12:1-2

 こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。1節

 ローマの信徒への手紙12章1節が、今年の標語「神に喜ばれる礼拝」を導く標語聖句です。この御言葉は、わたし達が礼拝形式を整えることに先立ち、わたし達の体を献げねばならないことを指し示しています。体を献げる具体性は、風邪をひいて寝込んだ体、よく働いた体、山歩きをした体、テレビを見た体、多くの罪を犯した体、この社会とこの地域のなかで活動している体、家族や友とともに生きている体、この自分の全体を神様に献げることに、表われています。礼拝とは、日曜日にだけ行うものではありません。わたし達の人生全体が、神様を礼拝する行為となり、わたし達は、生活のすべてにおいて神様を礼拝するようにと招かれています。

 その体を「いけにえ」として献げることが求められています。新改訳聖書では、「供え物として献げる」と記されていました。供え物であれば、祭壇に持って行けば、供え物になります。ところが、「いけにえ」にするには、殺さねばなりません。キリストの十字架の贖いにより罪を償う動物犠牲は必要ありませんが、神に喜ばれる礼拝には、いけにえとして献げられるべき生活が必要なのです。礼拝において、「神様、こうしてください」と神様を利用するように寄りすがるのではありません。全く逆です。礼拝において、キリスト者は「今日、死んでいいです。自分をお献げします」と自らを差し出すのです。礼拝においては、自分を捕まえている自分の手をゆるめ、自分の努力や頑張りで支えている自分を、努力や頑張りの紐からほどいて神様の御手に委ねるのです。そのように献げるとき、カルヴィンの言葉によれば、「古い自分に死んで、復活の新しい命に生き返る」ことを体験します。「神様が、まだ生かしてくださっている」と立ち上がり、生活に帰っていくのです。

 この勧めは、「神の憐れみによって」語られています。それは、罪と滅びのうちに死んでいた自分を、神様に喜んでもらえる生きた聖なるいけにえとして献げることができること自身が、まさに、神の憐れみによることだからです。わたし達は、「生活のこの部分は、汚れた部分ですから、神様に献げることができません。生活のあの部分なら、割合に綺麗な部分ですから、神様にお献げすることができます」というような区別自身が、意味をなさないような仕方で、わたし達のすべてを神様に差し出します。罪にまみれたわたし達の体が、キリストの贖いによって罪赦されて、神に喜ばれるいけにえとして受け入れられるとは、なんと光栄なことでしょう。そして、神に喜ばれる生活を心掛けることが、神に喜ばれる礼拝となるのです。

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