神港教会説教
2004年1月11日


「からし種一粒の信仰」
マタイ17:14-20

 イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」(20節)

 子供の父親は、イエス様を「主」と呼び、跪き、「憐れんでください」と嘆願します。彼の子供は、急に引きつけを起こして、川に飛び込み、たき火の中へさえ倒れ込みます。父親は、水のなか、火のなかから救い出し、なんとか命だけを取り留めてきました。イエス様は、彼の訴えを聞き、時代の不信仰を嘆き、悪霊を叱かりつけられました。不信仰な時代においては、人を死へと誘う悪しき霊が働いています。そのなかで、弟子達は、イエス様から力を受けていながら(10章8節)、証し人になれませんでした。また、「よこしまで神に背いた時代の者たちは、しるしを欲しがる」と、16章4節にあります。不信仰の時代の群衆は、しるしだけを期待して、親子の悲劇と弟子の無力さを好奇心から眺めています。

 イエス様は、弟子たちが癒すことができなかったのは、信仰が薄いからであると語られました。弟子たちは、イエス様から託された賜物さえうまく用いるなら、自分たちの力で癒すことができると錯覚していたのではないでしょうか。イエス様は、この信仰の薄さとの対比において、「からし種一粒ほどの信仰が、山を動かす」と語り出されます。ここでの信仰とは、自分にはできなくても、「神様にはできないことはない」と信じることです。その信仰において、自分の能力の範囲内で閉じられた世界に、からし種一粒ほどの穴が開いて、無限の神の力が一筋の閃光のように差し込んできます。自分にはできないことを認めつつも、失望せず、神様により頼む信仰です。実は、罪深い私たちが今信仰を持っていますこと自体が、神様にはできないことがないという事実を証ししています。神様が与え、神様が支えていてくださるから、私たちは信仰を保持することができます。私たちが自分でしたと思っていることも、実は何でもおできになる神様の恵みによってできていたに過ぎません。

 締め括りの言葉は、「あなたがたにはできないことは何もない」となっていますが、大切なことは、「神様にはできないことはない」という信仰に留まることです。「神様により頼む」信仰が、「神様により頼む自分にはできなことはない」という自信へと変質していくとき、信仰はかえって薄くなります。また、「神様にできないことはない」ことの徴を求めるとき、信仰はよこしまな不信仰へと転落します。「神様にできなことはない」という信仰を、イエス様との交わりのなかで、からし種一粒ほどの大きさで信じれば良いのです。この一粒の小さな信仰が、山をも動かすことを信じましょう。
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