神港教会説教
2004年1月4日
「白い輝き」
マタイ17:1-13
イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。(2,3,5節)
イエス様は、山の上で、顔は太陽のように輝き、服は光りのように白くなりました。6節を見ますと、3人の弟子は、天からの声を聞くことに耐えられず、恐れの余りに顔を地に伏せたとあります。この出来事は、好奇心をそそるものであるより、聖なる光景への畏敬、畏怖、恐れを呼び起こすものです。人間の目が見続け、人間の耳が聞き続けるには、余りにも眩しすぎる光栄であり、御声なのです。彼らは、イエス様から、手で触れていただき、立ち上がることができました。ここに真の礼拝があります。私たちは、イエス様の憐れみによって、見ることができないことを見、聞くことができないことを聞く恵みへと、招かれています。
弟子たちは、十字架の暗闇へとイエス様の後に従い行く直前に、栄光の主の御姿を拝することを許されました。ここに現れたモーセとエリヤは、旧約を代表する二人であり、旧約聖書の律法と預言を象徴的に表わしています。ルカによる福音書9章31節によれば、十字架が律法と預言を満たすものであることを、彼らは話し合っていたのでしょう。イエス様は、十字架の暗さにおいても、神の御前では神の御子であり、律法と預言の成就者として光り輝いておられます。弟子たちは、十字架に進み行くまえに、イエス様の栄光の姿を目に焼き付けることができました。
イエス様がその光りと輝きを隠し、十字架の暗さのなかに入ってきてくださいましたのは、私たちの罪のためです。イエス様は、終末の完成前に現れるエリヤとは洗礼者ヨハネのことであると示されました(11節)。律法学者は、新しいエリヤの到来の預言を知っていますが、誰がその人であるとは知りません。そして、ヨハネは、無惨な殺され方をします。エリヤの後に現れた真の救い主イエス様も、彼らによって、殺されます。光りが消されてしまいそうです。しかし、イエス様は、三日後に復活されます。そして、弟子たちは、復活後に栄光の主を語り始めます。闇は光りに勝つことはありません。
昨年からの連続講解説教が、今年最初の礼拝において山上の変貌の箇所になりました。この世が、初日の出を見て新しい年を過ごすのなら、私たちキリスト者は、主イエス・キリストの栄光の姿を拝して、新年の喜びを覚えたく存じます。暗闇が、今年、この世と私たちの心を被うかもしれません。しかし、それは、私たちの罪の暗さであっても、イエス様の暗さではありません。今年、何が起きても、そのなかで栄光の主を仰ぎ、主を礼拝しましょう。神は、「これに聞け」、とキリストへの聴従を求めておられます。
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