礼拝説教(牧師原稿)

教会での礼拝で語られた説教を牧師がまとめてた原稿です。
礼拝の復習をしたい方、都合で出席できなかった方など、どうぞご利用ください。

詩編62  「沈黙して神に向かう」  05,04,26

  わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、わたしは希望をおいている。 神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは動揺しない。わたしの救いと栄えは神にかかっている。力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。民よ、どのような時にも神に信頼し、御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。

  カトリック教会には「黙想の家」と呼ばれる施設があります。部屋にはテレビも電話もなく、静まって、時を過ごすことが出来ます。廊下や食堂に沈黙という張り紙がしてある場合もあります。そこは、人と語り合うより、沈黙して神様と向き合う場所です。我が家にいても静まることができるはずですが、心に静けさがないと、一人になっても静まることはできません。不安や欲望や恐れが、海の波の如くに、いつも心にざわめいています。

  詩編作者は、そのような不安を抱えつつ、黙して待つことを学びました。ここで、神に用いられている言葉は、岩であり砦の塔です。ヒビの入った壊れやすいものを丁寧に包むように、作者は、自らの傷ついた心を抱えて、神の元に身を寄せています。これは、神様だから、守ってくださるという信仰です。また、砦の塔である神様のなかにまで忍び込んできて、作者の魂を盗み出すことができる人は、誰もいません。作者は、「わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ」と自らに語りかけています。動揺しても、神のもとに身を避けるとき、黙して待つことができるからです。
  
   そして、作者は、民の心が挫け、あてどもなく漂っている姿を見て、そのような心を神に向けようとして、「民よ、どのような時にも神に信頼し、御前に心を注ぎ出せ」と促しています。沈黙して神を待つとは、ざわめく心を無理に黙らせるのではありません。自分ではどうにもならない不安を、祈りにおいて神に打ち明けます。心を注いで必死に祈り、悩みが神に聴かれ受け止められるとき、心は静けさを取り戻します。

  力に頼る者への怒りや欺く者への憎しみが、心のなかで語り続けているかもしれません。或いは、力が力を生み、金が金を生む興奮が、心に無駄口を語らせているのかもしれません。しかし、これらは、神の御前では、空気より軽い事柄です。心のざわつきを離れ、神の御許に隠れましょう。自分の願いや思いに語らせるのではなく、神にお語り頂きましょう。声のない沈黙ではなく、神の御声が鳴り響き、その御声を聴くときにこそ、心は沈黙します。礼拝こそが、沈黙の場です。